ご案内
取締役会、支店長会議、ホストコンピュータの機能などを含む本店機能はすべて福岡市に集約。
店舗も取引先も福岡が中心だった。
バブルの時代に、系列ノンバンクのKファイナンスを先兵に、不動産と九州一の歓楽街・中洲の水商売を相手に融資を拡大、バブル崩壊で、不良債権が増大するというお決まりのコースをたどる。
大蔵省出身のWを頭取に招き、再建に取り組んでいた。
系列ノンバンクをはじめとする不良債権処理による損失を穴埋めするために、力を入れたのが株式投資である。
株式運用で利益をあげ、一時期は赤字補填に寄与したこともあったが、ネットバブル崩壊に伴う株価下落で大穴を開け、五0億円の損失を出した。
K銀行の経営危機に金融庁は機敏に動いた。
関西の第二地銀の処理にひとまず区切りをつけた金融庁が、次なる再編の標的にしたのが九州の第二地銀であった。
関西の第二地銀のようにバブルの狂乱にどっぷり浸かっていたわけではないが、それでもバブル崩壊で、向こう傷を負っていた。
バブルの痛手が癒されないうちに、バブル崩壊後の地域経済の疲弊が重なって、「九州地区の第二地銀は再編の火薬庫」と取り沙汰されていた。
ぺイオフ解禁を目前にして、金融庁が描いた再編シナリオは、Hシティ銀行(福岡市)、N銀行(長崎市)、K銀行(長崎県佐世保市)の北部九州地区の第二地銀三行の広域統合であった。
だが、N銀行の要請で交渉のテーブルについたHシティ銀行と、公的資金の注入を受けるための条件を満たすために途中から割り込んできたK銀行の足並みは揃わなかった。
決裂が決定的になったのは、公的資金をHシティに一括注入する金融庁の提案が原因だった。
Hシティは「他行の損まで引き受けられない」と強く反発。
資本提携などの代替案を逆に提示したが、これは金融庁が拒絶した。
公的資金注入を切り札とする再編の枠組みを動かすつもりのない金融庁が、資本提携でお茶を濁そうとするHシティ銀行の案を認めるわけはなかった。
これで三行の統合計画は破談となった。
K銀行は二行から弾き飛ばされた。
焦ったのはK銀行と金融庁だ。
K銀行のトップは大蔵省の0Bである。
公的資金注入の申請期限が刻々と迫ってきていた。
それまでにK銀行の受け皿を決定しなければアウトだ。
金融庁は、ここで、手持ちのカードを切る。
不正融資事件で首根っこを押さえているS銀行にK銀行を押しつけることにしたのだ。
「迅速な決断」とS銀の当時の頭取のMは、この合併を前向きに評価してみせたが、実情は金融庁が有無をいわせず、決断を迫ったものだった。
K銀行が公的資金を申請したのは、統合発表から二日後の三月二七日。
三月末の期限に、ギリギリ、滑り込みセーフだった。
はじめに公的資金ありき。
再編のシナリオを完成させるために、金融庁が強行したのがS銀行とK銀行の統合であった。
金融庁はコントロール下にあるS銀行を再編のカードに使った。
金融庁は統合に先立ちK銀行に三00億円の公的資金を注入した。
この公的資金を回収するために、S銀行の、従来の株主切りによる清算という、ハードランデイングの手法が取られたことは、すでに書いた通りである。
金融庁の圧力に屈し、K銀行との統合を認めたMは、のちのちまで、行内で非難の的になった。
金融庁の要求をハネつけられなかったのは、不正融資事件で弱みを握られていたからだが、頭取の犯罪の後遺症は思いのほか、大きく重く、銀行全体にのしかかっていたことに、S銀行の心あるパンカーたちは、このとき、初めて気づかされた。
S銀行とK銀行の統合が発表された目、Hシティ銀行もN銀行の子会社化を発表している。
金融庁のシナリオに沿って、有力地銀は次々と再編に動き出した。
Hシティ銀行は九州最大の地銀、H銀行との合併交渉を進めたが、システム統合を居丈高に迫るH銀行の態度に、HシティのY・頭取が切れた。
YはZ銀行協会(現・D銀行協会)の会長として、相互銀行の普銀への一斉転換を成し遂げた立て役者だ。
Yは現代絵画のコレクターとしても、世界的に知られており、ニューヨーク市のマンハッタン島の南部(ダウンタウン)にある芸術家の街のソーホーに住む前途有望な米国人画家のパトロンになったりしていた。
ドンの逆鱗に触れ、Hシティ銀行とH銀行の合併はご破算になった。
Hシティ銀行はただちに、西N銀行(福岡市)に合併を働きかけ二00四年四月に合意。
これが現在のN銀行である。
福岡の暴れ馬、HシティのYも金融庁の再編スキームの枠内に、それなりに納まったのである。
K漁業グループ、行き詰まる二00二年四月、金融持ち株会社KSHDが設立され、S銀行とK銀行は完全子会社になった。
そして0三年五月、S銀行はK銀行を吸収合併した。
だが、再生の道程は速かった。
長崎県の主力産業は造船、水産、観光。
地方経済の衰退で、その象徴といえる企業の経営危機が相次いで表面化した。
まず二00三年二月、佐世保市の大型リゾート施設、HTが会社更生法を申請した。
S銀行は九三億円、K銀行は三二億円が焦げついた。
HTは長崎県大村湾に面した海辺に一七世紀のオランダの街並みを再現した大型リゾート施設だ。
名称はオランダ語で「もりの家」を意味する。
開発面積は一五二へクタールで東京ドームの三三倍の広さだ。
施設内にはレンガ造りの城や風車が並び、石畳の街路を縫って運河が走る。
一九九二年三月の開業当時は、「東のTDL、西のHT」と彊われた。
HTを訪れる観光客がもたらす経済波及効果は、県内総生産の五%に相当した。
「観光立県」を目指す長崎県にとって、HTは象徴的な存在だった。
地元銀行はこぞって融資した。
S銀行とK銀行は合わせて一二五億円が不良債権になった。
続いて、S銀行の最大の融資先といわれるK漁業グループ(長崎市)の経営危機が表面化した。
「SのK(漁業)か、K(漁業)のSか」といわれるほど関係は深かった。
創業者は隠れキリシタンで有名な生月島(現・平戸市)出身のK。
養子に入った先の海産物仲買の仕事を継いだKは、その一帯を支配する綱元となった。
一九五九年、東シナ海のRライン周辺の海上で韓国警備艇による日本漁船の会だほのとき、Iは自衛船を仕立てた。
この船団の護衛のもとで漁船は安全操業を続けた。
Iの名は全国に轟いた。
余勢を駆って、Kは政界に進出した。
第一次N内閣で農水相を務めるなど、J党の典型的な水産族議員である。
Kが政界を引退したあと、S銀行が全面的にバックアップしたのがKだった。
Iの政界引退後、事業は長男が、選挙地盤は次男が引き継いだ。
次男のKGは長崎県知事。
知事を三期務めたHは、J党からM党へ政権交代したため、四選への出馬を断念した。
その代わりではあるまいが、二0一0年七月の参議院選挙に長崎選挙区からJ党公認で立候補して当選した。
かねてから、金融庁の検査で問題が指摘されていたのがK漁業グループへの融資だった。
二00四年、いよいよニッチもサッチもいかなくなり、長男を代表から更迭。
S銀行は常務を社長に送り込み、丸抱えで面倒をみることにした。
県知事に気兼ねして、メインバンクのS銀行はK一族の家業の荒療治ができなかったと、酷評された。
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